納車の日をどんな風に迎えるか、何度も想像していた。担当の方から鍵を渡され、静かにドアを開けて乗り込む。エンジンをかけた瞬間に、長年憧れていた空冷フラット6の音が響き渡る──頭の中では、そんな映画のワンシーンのような時間が流れるはずだった。前日はほとんど眠れなかったし、当日の朝は何度も時計を確認しては、まだかまだかと落ち着かなかったのを覚えている。
実際に鍵を受け取ったとき、手が少し震えていたのは覚えている。でも、いざエンジンをかけてみると、想像していたよりずっと武骨な音がした。低くくぐもって、どこか荒っぽい。カタログ写真やSNSで見ていた「憧れの空冷サウンド」とは、微妙に違う質感だった。拍子抜けした、というのが正直な気持ちだ。助手席に座っていた家族も、最初は「思ってたより地味だね」と笑っていた。その一言が、なぜか妙に胸に刺さった。翌日、古くからの友人に写真を送ったときも、返ってきたのは「そんなに古い車で大丈夫なの」という一言だった。悪気がないのはわかっていたけれど、憧れを共有できないもどかしさを、そのとき初めて実感した気がする。
走り出してからも、ギャップは続いた。パワーステアリングのない重いハンドル、エアコンの効きの頼りなさ、渋滞の中でじわじわと上がっていく油温計。窓を開けても排気ガスと熱気が入り込んでくるだけで、想像していた爽快なドライブとはほど遠い。信号待ちのたびに、隣の現代的な車と自分の車を見比べては、少し不安になった。「これを維持していけるんだろうか」「本当にこの選択で良かったんだろうか」。納車の高揚感の裏側で、そんな迷いが静かに顔を出していた。SNSに上げるための一枚を撮る余裕さえ、最初の数日はなかった。
変化が訪れたのは、納車から二週間ほど経ったある夜だった。特別なことは何もない。ただいつも通り走っていただけなのに、ふと、エンジン音の中に小さなリズムの揺らぎを感じ取れるようになっている自分に気づいた。今日はいつもよりほんの少し軽やかだ、とか、この温度だと少し重たいな、とか。理屈で覚えたのではなく、体が勝手に覚えていた。気づけば、渋滞も油温計を眺める時間として悪くないと思えるようになっていた。あれほど重く感じていたステアリングも、駐車の際に少しだけ力の抜き方がわかるようになり、指先に伝わる感触が心地よくすら感じられてきた。
思えば、憧れていたのは「完成された美しい景色」だったのだと思う。写真や映像の中で静止した、隙のない一台。けれど実際に手に入れたのは、毎回少しずつ表情を変える、生きている機械との付き合いだった。機嫌のいい日もあれば、朝一番のセルの回りが重い日もある。剥がれかけた期待の下から出てきたのは、もっと手触りのある、地味だけれど確かな喜びだった。
あの晩、駐車場でエンジンを切ったあとも、しばらく運転席から降りられなかったことを覚えている。何かをやり遂げたわけでも、答えが出たわけでもない。ただ、想像していた景色とは違う場所に、思っていたよりずっと長く留まっていたいと感じただけだった。あれから何年も経った今も、エンジンを切った直後のあの数秒間だけは、ほとんど変わっていない気がする。
この記事が参考になったら、最新情報をXでもチェックしてください。
@porsche_gate をフォローする

